来月、若い世代の諸君と「『鬼滅の刃』を語る会」を開催する。
会では、私が一方的に講義をするのではなく、
むしろ参加者の感想や意見を、沢山聴かせて貰いたい。
そう考えて、私自身が提案した企画だ。少なくとも私にとって、この漫画は(テレビアニメや映画も含めて)
「語り合う」に値する作品だ。
何より、薄っぺらな“生命至上主義”への強烈なアンチテーゼが
示されているのが印象的だ。
この作品は、一言で言ってしまえば、鬼狩り(産屋敷〔うぶやしき〕家
当主に率いられた鬼殺隊)が、人々の平和な生活の為に、
鬼(鬼舞辻無惨〔きぶつじ・むざん〕とその手下達)を狩るだけの話だ。しかし、狩る側が何故、鬼狩りになったか、鬼も元は人間だったのに何故、
鬼になってしまったのか、その事情・背景こそ、物語の大切な要素に
なっている(そこには、「家族」というテーマが深く刻印されているのだが、
ここでは立ち入らない)。鬼は強く、疲れず、傷ついてもたちまち回復する。
そして永遠に生きることが出来る。
一方、人間はどれだけ鍛練を重ねても、弱く、疲れ易(やす)く、
傷つけば容易(たやす)くは回復せず、簡単に死んでしまう。
又、年月と共に老いて衰える。
その宿命は、どれだけ強い剣士であっても、免れられない。
物語で鬼は、剣士に繰り返し「永遠の生命が欲しくないのか」と誘う。
又「ここで戦えば死んでしまうぞ」と脅す。永遠の生命よりも更に価値があるもの、自分の命を犠牲にしてでも
守るべき価値とは何か。
それが、作品の中で何度でも、問い返される。
命を捧げても悔いない使命、目的、価値があってこそ、
生命は真に尊厳であり得、輝くことが出来るという逆説が、
ストーリー全体によって見事に表現されている。三島由紀夫の檄文に「今こそわれわれは生命尊重以上の
価値の所在を諸君の目に見せてやる」
という一節があった。
それと、遠く響き合うものを感じる。
当日、どんな会になるか、今から楽しみだ。【高森明勅公式サイト】
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